2015年3月18日水曜日

『アウステルリッツ』


那須悠介写真展「緑の火」開催中です。
22日(日)までです。是非ご高覧ください!






『アウステルリッツ』W.G.ゼーバルト 
白水社; 改訳版 (2012/6/23) 
鈴木仁子 訳


何度も繰り返し読みたくなる本、読むことのできる本と出会うことは稀ですが、ゼーバルトの著作は何度読んでも飽きることがない本です。

特に、散文としか呼びようのない作品の多くは、ルポルタージュのようなエッセイのような旅行記のような小説。
文だけでなく、イラストや写真が多用されているのが特徴です。


ゼーバルトの魅力を語り出すときりがないので、遺作となった「アウステルリッツ」からほんの一文ですが、抜粋したいと思います。
ちなみに「アウステルリッツ」とは建築史家としてヨーロッパ諸都市を巡り並々ならぬ博識を持った孤独な人物のことで、語り手と偶然出会い、20年後に再び出会ったことで、彼自身の来歴とともに20世紀の様々な歴史が語られる...という筋立てです。抜粋するのは、アウステルリッツが語り手に、学生時代に親交を結んだ友人とその家族との思い出を語る場面です。


「私は今でも、あらゆる生き物の中で蛾にはもっとも畏敬の念を抱いているのです。あたたかい季節には、蛾が一匹、二匹、私の家の狭い裏庭から家の中に迷いこむことがあります。朝早く起きて見ると、蛾が壁にとまったまま、じっとしている。彼らはおのれが行く先を誤ったことを承知しているのだと私は思うのです、とアウステルリッツは語った。なぜならそっと外へ逃がしてやらないかぎり、命の灯の消えるまで、ひとつところをじっと動かないのですから。それどころか断末魔の苦悶にこわばった小さな爪を突き立てたまま、命が尽きたのちもなお、おのれに破滅をもたらした場所にひたと取り付いたままでいるーいずれ風が引き剥がして、彼らを埃っぽい片隅に吹き去るときまで。私の家で果てていった蛾を見るにつけ、迷いこんだときの彼らの不安と苦痛はいかばかりだったろうと思わずにはいられません。アルフォンソから学んだのですが、とアウステルリッツは語った、下等な生物にたましいがないと断じられる理由はひとつもないのです。夜に夢を見るのは、私たち人間と、何千年にわたって人間の感情の動きと結ばれてきた犬などの家畜だけではありません。鼠や土竜のような小型のほ乳類も、眼球運動を見るかぎりでは、まどろみながら内面にのみ存在する世界の中に入りこんでいます。蛾も夢を見ないとは、庭のチシャ菜が夜半に月を仰いで夢を見ないとは、どうして言えるでしょう。」



この一文は単に蛾についての思い入れたっぷりの記述ではなく、散文全体を通じて吐露される近代や歴史に対する批判を多分に含んでいます。後に明かされる「私の家の裏庭」とは墓地のことで東欧ユダヤ人たちが埋葬されていた墓地。想起されるのはホロコーストで、アウステルリッツ自身も幼い頃に両親を奪われ、その過去を秘められたまま育つことで、心休まるときを持つことができずにヨーロッパ各地を彷徨うのです。


私にとって、ゼーバルトの散文を読むことは、どういう認識をもって、何に向き合うべきかを考えさせられるとともに、写真を撮ることの根源的な欲求が何だったかを問い直すことになっている気がします。

今回ご紹介した「アウステルリッツ」も勿論お薦めではありますが、ゼーバルトを最初に読むとしたら、個人的には短中篇集「移民たち」から先に読むのをお薦めします。
理由は、先に記したようにジャンルを特定できない散文なので、オムニバス的な作品のほうが読みやすいのと、作家の好むモチーフが多く散りばめられている点で、引っかかりがあるように思うからです。

なお、今回の抜粋は株式会社白水社様から許諾をいただいたものです。念のため...。

那須悠介


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